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オオカミの護符 表紙.png

私が生まれ育ったのは埼玉県西部の入間市というところです。
関東平野の外れで、西を向けば奥多摩から秩父の山並みが一望できる、そんな町でした。

奥武蔵山地を抜けて八ヶ岳の麓まで繋がる国道299号線が近所を通っていて、車好きの父に連れられて秩父方面にドライブに行くこともしばしばありました。

ドライブの最終目的地はいつも三峰神社でした。父にとって三峰神社がどんな意味を持つのか聞いたことはありません。名古屋出身の父にとっては何の意味もなく、ただ時間的にちょうど良かっただけかもしれません。

それでも自分には子供時代の思い出として強く心に刻まれていたようで、20年を経て山に登る趣味を持つようになって、雲取山まで歩くために三峰神社に行ったときに父と一緒に参道を歩いたことをまざまざと思い出したのでした。

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どういう繋がりかはよくわからないのですが、秩父地方の有名な神社は交通安全の神様として有名なところが多いです。三峰神社もそうですし、長瀞の宝登山神社も交通安全で有名なようです。で、私の生まれ故郷は秩父地方への交通の便がだいぶよい土地なので、近所の自動車にはその三峰神社や宝登山神社の交通安全のお守りが貼られている場合が多かったようです。

それらのお守りに描かれているのは決まって黒い犬でした。これがまさに「オオカミの護符」だったわけです。

自分にとってお守りに黒い犬が描かれていたり、たまに犬の形の狛犬が立っている神社があったりするのは極めて普通なことでした。まったく違和感を感じていませんでした。と言っても、その黒い犬がニホンオオカミだということは意識していませんでした。

例えば、上の三峰神社の山門前に鎮座する狛犬は、まさにオオカミの姿をしています。ズームするとこんな感じ。
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秩父市小鹿野町にある両神神社の狛犬はオオカミで有名だったりします。
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本書では、川崎市の片田舎で生まれ育った著者が、自宅の蔵に貼ってあったオオカミの護符の謎を追って取材を続ける中で、奥多摩の武蔵御嶽山から秩父の三峰山まで行きつきます。その過程の中で現代も生き続ける山岳信仰の実像を丁寧に描かれています。

古くから有名な山の頂には決まって社が設置されています。日本三霊山である富士山・立山・白山の山頂にはそれぞれ浅間神社・雄山神社・白山比咩神社の奥宮が設置されています。他にも私が登頂した中では、奥穂高岳・薬師岳・笠ヶ岳・常念岳・甲斐駒ケ岳・赤岳・妙高山・那須岳・会津磐梯山・筑波山・武蔵御嶽山・大岳山などなどが挙げられます。まさに枚挙に暇がありません。

山岳信仰というものが日本にはあることは知っていました。でも実際にこのように間近に肉眼で見て来たにも関わらず、その実体はまったく知りませんでした。山に登って社があれば自然と手を合わせるし、一人で山中を歩いていると何となしに霊的なものは感じます。でも実際に「うちは山岳信仰です」と名乗る人に出会ったことはないし、手を合わせるためだけに山に登る人に出会ったことはありません。一体山岳信仰とは何なのか機会があれば調べてみたいとは思うものの、その機会はなかなか訪れませんでした。

本書にはその答えが断片的ながらありました。山岳信仰とは「お山に生かされている」もしくは「お山とともに生きている」という心だと感じました。山は汚れた水を浄化し植物を育み動物を生かします。人は動物を狩猟し植物を採取し水を飲んで生きています。人は自らを生かすために山の自然を維持するし、その心を忘れないために山を神様とした、それが山岳信仰であったと自分なりに解釈しました。

本書を読み進めると昔ながらの山岳信仰の文化が今だ連綿と生き続けていることに驚くと共に、それがすでに風前の灯にあることがわかります。痛いです。

自分は顔を上げれば目前に山が並ぶ土地に生まれ育ち、数々の信仰の山を登ってきたにも関わらず、町に帰って本を読まなければこれを感じることができませんでした。残念です。

今のところこの現状に対して自分に何ができるのか、そもそも社会はこの問題にどう向かうべきなのか、何も整理はできていません。整理はできていませんが、忘れてはいけない問題なんだろうということは強く感じています。

どれだけ時間が残されているのかはわかりませんが、もう少しじっくり考えてみたいと思います。

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